[「褒める」の効用性]
「褒める」とは人の行動をいいと評価することである。例えば、「凄い」、「素晴らしい」、「カッコイイ」などがこれに含まれる。言語的な表現に限られないものの、具体性を付与するための言語はやや不可欠となる。ならば、褒める対象となるあらゆる層位の制約から離れ、状況や対象の特殊性を排除し、「褒める」という行為の本然の構造を考察したとき、果たして相手に肯定的に作用すると言えるのだろうか。何かが「良い」というのはその対象に関する「肯定」の意思を表明する。ここでの「肯定」は主体的な基準をもとにそれが自分の価値観や基準に適合しているか、否かであり、大きく逸脱していないという感覚である。この点に鑑み、「褒める」は「自発的な規律」という主観的な「肯定」に沿って、少なくとも評価者が自分と他者の関係をどのように認識しているかという観点から、二つの典型的なケースに分けることができる。
1.自分は他人より優れていると認識
2.自分より他人の方が優れていると認識
ケース1の場合は、「褒める」に選民意識やナルシスト的な性向、意図をひそかに潜ませている可能性が高い。これは、利己性という特徴が資源の占有において、結果としてであれ人間の生存力に肯定的に作用したため、特徴から特性へ進化したからである。
ケース2の場合は、「褒める」に「自発的な規律」を適用することで「名目的な称賛」と「実質的な称賛」に区分できるだろう。
「名目的な称賛」は国家や文化などの大集団に限らず、自分が所属している集団が保有する道徳や倫理に沿い、弱い意味での強制力によって受動的に行う称賛である。一方、自分が認知している相手が「自発的な規律」に同調していると判断できたとき、その賞賛は「肯定」そのものになる。
ここで注意すべきなのは、感情的な反応を「自発的な規律」の外部に置いてはならないという点である。なぜなら、感情そのものもまた、環境、経験、教育、所属集団の倫理、そして個人が内面化してきた価値基準によって形成された反応形式だからである。したがって、ある対象を見て即座に「素晴らしい」と感じることは、規律から自由な純粋反応ではなく、むしろ規律が意識的判断を経由せずに情動として現れたものだと言える。
ここで止まらず
3.非合理的であるが純粋な称賛「非合理的な称賛」
の存在を主張する人もいる。
しかし、こういった「非合理的な称賛」はケース2で語った「名目的な称賛」に他ならない。あらゆる環境により偏向された個人の認知情緒的な行動は称賛のタイミングそのものを学習してしまったわけだ。
もしくは、自分の損得を計算できないぐらいバカになるしかないだろう。
こうやって「褒める」という行為の肯定性を効用性の側面から分解することができる。
ここでだが、その「褒める」を分解する基準を主観や雰囲気などの「相対的なもの」から形而上学のような「絶対的なもの」に覆すとどうなるだろうか。「褒める人間」は「褒められる人間」にフィードバックを提供することで「褒められる人間」の「自発的な規律」の重みに変化をもたらす。つまり、「褒める人間」のフィードバックが絶対的に正しいという仮定なしではその絶対的肯定を判断できないわけである。
これらの理由から「褒める」は相対的な領域では一部肯定的であるが、絶対的な領域では判断不可能であると言えよう。
1.自分は他人より優れていると認識
2.自分より他人の方が優れていると認識
ケース1の場合は、「褒める」に選民意識やナルシスト的な性向、意図をひそかに潜ませている可能性が高い。これは、利己性という特徴が資源の占有において、結果としてであれ人間の生存力に肯定的に作用したため、特徴から特性へ進化したからである。
ケース2の場合は、「褒める」に「自発的な規律」を適用することで「名目的な称賛」と「実質的な称賛」に区分できるだろう。
「名目的な称賛」は国家や文化などの大集団に限らず、自分が所属している集団が保有する道徳や倫理に沿い、弱い意味での強制力によって受動的に行う称賛である。一方、自分が認知している相手が「自発的な規律」に同調していると判断できたとき、その賞賛は「肯定」そのものになる。
ここで注意すべきなのは、感情的な反応を「自発的な規律」の外部に置いてはならないという点である。なぜなら、感情そのものもまた、環境、経験、教育、所属集団の倫理、そして個人が内面化してきた価値基準によって形成された反応形式だからである。したがって、ある対象を見て即座に「素晴らしい」と感じることは、規律から自由な純粋反応ではなく、むしろ規律が意識的判断を経由せずに情動として現れたものだと言える。
ここで止まらず
3.非合理的であるが純粋な称賛「非合理的な称賛」
の存在を主張する人もいる。
しかし、こういった「非合理的な称賛」はケース2で語った「名目的な称賛」に他ならない。あらゆる環境により偏向された個人の認知情緒的な行動は称賛のタイミングそのものを学習してしまったわけだ。
もしくは、自分の損得を計算できないぐらいバカになるしかないだろう。
こうやって「褒める」という行為の肯定性を効用性の側面から分解することができる。
ここでだが、その「褒める」を分解する基準を主観や雰囲気などの「相対的なもの」から形而上学のような「絶対的なもの」に覆すとどうなるだろうか。「褒める人間」は「褒められる人間」にフィードバックを提供することで「褒められる人間」の「自発的な規律」の重みに変化をもたらす。つまり、「褒める人間」のフィードバックが絶対的に正しいという仮定なしではその絶対的肯定を判断できないわけである。
これらの理由から「褒める」は相対的な領域では一部肯定的であるが、絶対的な領域では判断不可能であると言えよう。
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